「北酒場」「石狩挽歌(ばんか)」などのヒット曲で知られ、直木賞作家の作詞家・なかにし礼(本名・中西禮三=なかにし・れいぞう)さんが23日午前4時24分、心筋梗塞のため、都内の病院で亡くなった。82歳だった。11月に体調を崩し、入院していた。故人の遺志により、葬儀・告別式は25日、家族葬で執り行った。後日お別れの会を開を予定。喪主は妻・中西由利子さん。
なかにし先生と初めて会ったのは1994年、日本音楽著作権協会(JASRAC)の理事長に就任した時だ。同協会が古賀政男財団へ巨額の融資が問題になり、火消しに当たった先生が、そのまま理事に就任して協会運営を任されることになった。「どんなことであろうと、悪いことは直していく」。厳しい局面にも矢面に立って、歯に衣着せぬ振る舞いで協会を引っ張っていく姿は清々しくもあった。
長年、音楽業界に身を置いているから、音楽はもちろんのこと芸能界の力学まで把握していて、会う度に「若いんだからもっと勉強しなきゃダメだよ」とたしなめられたものだ。一昨年、本紙で日本レコード大賞の連載でお会いした時も「古賀政男先生や服部良一先生がレコ大を作ったのは日本の邦楽レーベルを発展させようと思ったからだよ。当時、東芝はキャピタルで、コロムビアはCBS、ビクターはフィリップス。みんな洋楽レーベルですよ。今の記者はそんなの分かっていないでしょ」と一発お見舞いされた。意欲のある者には辛口ながらもアドバイスをしてくれる人でもある。
あまたの歌手へ作品を提供している中で、細川たかしへの思い入れは半端なかった。「たかしのポテンシャルは凄いよ。あの声、滑舌、喉の強さ、歌も上手い音程もいいし」と絶賛していた。「北酒場」で3度目の大賞を受賞したが「『心のこり』から7年経った時にバーニングの周防(郁雄)社長から『作品を書いてくれ』と依頼された。デビュー作を手掛けた以上は最後まで面倒を見るのが作家の使命だし、たかしのためにも絶対にレコ大を取らなきゃいけないと思ったし、大賞を取って自分の役目は果たしたと実感できた」と振り返っていた。
レコ大で唯一、心にひっかかっていたのは森進一の「港町ブルース」(69年)で大賞を取れなかったことだという。「あの曲、130万枚でぶっちぎりで売れたんだよ。あれは僕が補作詞になっているからパンチが弱かったけど、(大賞受賞曲の)『いいじゃないの幸せならば』をけなすワケじゃないけど、セールス実績からいうと10分の1ですよ。それを考えると『港町―』が獲らないといけないワケよ」。そこはまさに勝負師の目になって悔しさをにじませていた。きっちり黒白をつけたがる性格なのか、ニシン漁への投資が失敗して莫大な借金を背負った兄の血が、違った形で受け継がれているかもしれない。
先生が今の歌謡界で注目していたのは氷川きよしだった。「きよしは舞台上手だし、歌も上手い。喉もいい。これからは氷川だね、男は」と言い切っていた。さらに「彼は作品に飢えていますよ。いまだに股旅モノが企画に上がるんですよ。本人はちゃんとした歌を歌いたいんですよ。いまだに人々が忘れられない曲は、やだねったら、やだね―。ずん、ずん、ずんどこ―でしょ。もっといい歌を歌わせたい」。親のように心配して残した作品の第1弾が「母」だった。これから「氷川きよし×なかにし礼」のタッグがもっと見られると思った矢先…。日本音楽界は宝を一つ失ってしまった。(特別編集委員・国分 敦)
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